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馬上の姫君   第七章   秀吉矢傷の後ー6   北畠正室松の方秀吉の人質となるー3
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               馬上の姫君

           第七章  秀吉矢傷の後ー6

         北畠正室松の方秀吉の人質となるー3


 「北畠正室と女佐の臣を人質として大河内城まで連れていく。孫八郎、

 そちに預けるゆえ、確と見張れ。大事な人質じゃ」

 「承知仕った」

 「先に参る。遅れるでないぞ」

  秀吉は先駆けして見えなくなった。馬上の人質、松姫と与志摩を中に

 挟んだ木下軍三千は、深夜の波瀬街道を室の口から矢頭谷に入り、仁

 王峠から下之川を経由して、八月二十九日早暁、大河内城の西方に陣取

 る氏家卜伝、佐久間信盛らの軍団と合流した。その間、人質とは思えな

 い凛とした姿勢で気高く馬を駆る松のお方様に孫八郎は強く感銘してい

 る。

  大河内城は阿坂城の西北、五里余りの伊勢街道沿いにある。高さ三町

 程の小山の上にあり、麓は田畑の平地で、道も開け、攻撃側に立つ織田

 方からすれば兵の展開には恵まれていた。北畠具教は一志郡細首(一志

 郡松ケ崎村松ケ島)に館を築き、多気から移っていたが、織田の侵攻に

 遭い、細首には日置大膳亮を留め置き、自身は大河内城に入った。すで

 に国司家の精鋭は全て大河内城に集結している。大河内城は要害として

 はそれほど天倹と言うほどのことはない。しかし、前面には伊勢平野が

 開け、後方には大和から伊賀に連なる山地を負っている。従ってこの地

 に拠れば敵軍を追い前進して旗を伊勢平野に立てることも出来るし、退

 いて多気の山城に最後の籠城戦を試みることも可能である。だが、織田

 の兵力五万に対して、大河内城に籠もる北畠軍は一万弱の劣勢にあっ

 た。秀吉が大河内城下に着陣した二十九日の払暁、桂瀬山に本陣を置く

 信長は総攻撃を命じた。緒戦は大手の広坂口と市場付近で、織田軍の先

 鋒、池田恒興の兵五百と、北畠の主力、日置大膳亮、家城主水祐の兵五

 百が激突する。池田勢は土倉四郎兵衛、八木粂右衛門らが先陣を駆け、

 北畠では槍の家城主水祐をはじめ、永井帯刀、小林図書頭、船木左馬

 助、阿村新左衛門らが獅子奮迅の働きであった。小半時の白兵戦が展

 開されたが、次第に織田勢が押しまくられて後退した。

  信長は九月八日、再度、稲葉伊予守、池田恒興、丹羽長秀らに攻撃を

 命じ、三手に別れて軍兵を繰り出したが急に雨が降りだす。そのため火

 縄銃が使えず、織田軍に多数の死傷者が出た。池田衆の攻め口では、

 馬廻りの朝日孫八郎、波多野弥三郎らが、また、丹羽衆の攻め口で

 は、近松豊前守、神戸市介、寺沢弥九郎、溝口富助、金松久左衛門ら

 が戦死した。

  北畠勢も家城の家臣、今尾蔵人、加藤五郎左衛門など勇猛な武将を

 失う。しかし、それでも怯(ひる)まず、船江城の本田美作守の率いる

 決死隊二十人が氏家卜伝の丹生寺の陣へ夜討ちをかけ氏家配下の三十

 六人が死んだ。

  九月九日、信長は兵糧攻めに出た。滝川一益に命じて多気谷の国司

 御殿を焼き払わせ、周辺の稲はすべて刈り取らせた。

  大河内城では、北畠家老鳥屋尾岩見守が籠城に必要な糧食を確保し

 ていたためにすぐに落城することはなかった。しかし、戦局が長引き

 二ヵ月も経つと、食料も底を尽き、城内に餓死者が出るようになっ

 た。信長は和睦に持ち込むにはいい潮時と見て、柘植三郎左衛門に矢

 文を射させた。


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